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稔橋の由来。 [ひこちゅうニュース]

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彦崎稔橋情報発見!
以下記録

以下出典元 http://mrymy.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/text/kurasriv.txt

当村の西疇と当時の彦崎村植松(現在は灘崎村)の間に、明治十五年(一八八
二)ごろ倉敷川を渡る、当時の四国街道(岡山~下津井間)の最も重要な橋と
して、木造でつくられたもので、すぐ上手の渡し場にかえられた。

交通が、大八車・人力車・馬車の時代にはスマートな丈夫な大橋だったが、
交通機関の大型化・多量化がすすみ、木橋では、修理におわれ、危険な状態
になったので、大戦後の昭和二十四年(一九四九)ごろより、岡山より児島ま
での沿線の市町村長を中心とした住民の陳情によって、昭和二十七年(一九
五二)十二月に、新式橋梁架設に着工して、三か年の歳月をかけて竣工し
た。経過の二、三を述べると、

昭和二十九年(一九五四)十二月、田中組によって、重量百二十トン、長さ五
十メートル、高さ九メートルのトラスが出来上がり、三十年(一九五五)一月
の満潮時を利用して、五十メートルのトラスを引出式の方法で接続し、中間
五十メートルだけをトラスで結んだ美しい橋が、もとの木橋より、凡そ五
メートルの下流に架けられたのである。

総工費五千余万円を要した。
昭和三十年(一九五五)四月十日に、盛大な竣工渡橋式が行なわれた。
全長は百十八メートル、幅員は六メートル五○で、橋脚は七本である。
鉄筋コンクリート工事のみでも、大本組の手で、約一か年かかった。

現在の国道三十号線が四国への主要道路として開通したので、興除村の中央
を貫通していた国道二十二号線は、一等県道となったので、稔橋も国道では
なくなったが、岡山と児島・水島・琴浦を直結する主要橋梁として、近く、
さらに大きく広い橋梁に生れ変わる日も近づいているのである。

実に、村内交通のバロメーターとして、最大の代表的橋梁である。
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1955年に竣工。次第に祝ったらしい。
価格は約50,000,000円。


* 新稔橋(しんみのるはし)(新橋)、岡山市南区植松702付近
昭和54年3月竣工、倉敷川、新橋、両側に歩道あり
県道岡山児島線(県道21号)

* 狐崎跨線橋(きつねざきこせんきょう)、岡山市南区植松675-1付近
JR宇野線の跨線橋
岡山駅側跨線橋は昭和42年3月竣工とある。
宇野駅側跨線橋は昭和63年3月竣工とある。

宇野駅側弧線橋の宇野側にのみ歩道がある、宇野側跨線橋のすぐそばに民家
の屋根が迫る。手摺りを乗り越えれば屋根に下りれそうなところがある。

* (1)八角井戸、岡山市南区藤田8-9南隣接
いつでも行ける地元にありながらも八角井戸がなかなか見つけられない。農
林水産省の33okamap.pdfにある井戸の場所が分からない。近くには用水路を
挟んで二本の道がある。一つは少し幅広高めで両側に畑のある土手筋、もう
一つはそれから一段下の用水路と民家がある生活道路っぽい道である。地図
上では進行方向右側に番号(1)がある。実際にあるのは民家のある細い通り
の脇になる。コース地図上では進行方向の左側になる。

番号を付ける位置が違っているのだろうと辺りを自転車で探してようやく見
つける。「この道の右側」しか見てない。しかも「この道」がコース上の道
がどうかもはっきりしない。何気なく左側を見ると土堤下の細い通りに撥
(は)ね釣瓶の天秤棒がある。農林水産省pdfの写真は八角形の井戸枠だけで
撥ね釣瓶の天秤棒は写っていない。中部産業遺産研究会、永井唐九郎氏のペー
ジには撥ね釣瓶の写真がある。

井戸の水を汲み上げる縄付き桶が釣瓶である。桶を引き上げるには滑車を使
う車釣瓶かまたは天秤棒式の撥(は)ね釣瓶のどちらかになる。片方に釣り合
いの重石を載せたシーソー式の撥ね釣瓶の方が汲み上げは楽だろう。

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